土佐山には、 おいしい食材を届けたい、美しい産品を届けたい、
という村人たちの想いから生まれる、自慢の特産がたくさんあります。
『炭窯を復活、炭のある暮らしへ』坂本一幸・和田晃栄・和田耕八郎
2020 .08 .31
土佐山では、古くから「炭焼き」が盛んに行われ、炭を資源として活用してきた歴史があります。時代の変化とともに徐々に衰退してしまいましたが、昨年、炭窯を復活させたという、坂本一幸さん・和田晃栄さん・和田耕八郎さんにお話をお聞きしました。
——— 土佐山は、集落の至るところで煙が立ち上るのが見られたほど、炭焼きで生計を立てる人が多かった地域と聞いています。みなさんも炭焼きをやっていたのでしょうか?
坂本 そうやね。もともと炭を焼きよったね。
和田(晃) 現金収入 といったら、炭よ。1年中やっとた。
——— その頃は、農業はやられていなかったのですか?
坂本 農業もしよって、炭も焼いとった。米と麦をつくってたね。
——— 炭焼きをしなくなった背景というのは?
和田(晃) 時代が変わっていって、炭が売れなくなった。そんで、材木を切って売るというような林業へと切り替えていったんよ。
窯を作るのに、1ヶ月くらいかかる。
——— 昨年、炭窯を復活させたということですが、窯を造るとこらからの作業工程を教えていただけますか?
坂本 まずは整地。窯を造るのに、土台となる平らなところをつくる。
和田(耕) 後ろを掘り込んで、石崖をつくる。赤土と木で形を整え、藁などを上に被せ、赤土で覆い、叩いてきれいに均して固める。赤土を他所から運んでくる事もあったので大変やった。
——— そこまでの作業で、どのくらいかかるのですか?
坂本 約 1ヶ月くらいかかる。その間、収入がないから、まこと苦労した。
——— 窯は一回作ったら、何年も保つのですか?
和田(晃) 保つけんど、あんまり遠方から木を運ぶのは大変だから、木がある場所に、次へ次へと移動して造っていくんよ。
——— 窯を造るのに、適した場所はどういうところなのですか?
坂本 水が出ない、湿気がないところがいいね。それから風があまり吹かないところ。
——— 窯ができたら、いよいよ火入れですね?
和田(耕) 雨で濡れないように屋根をつくってから、やっと火を焚く。炭にする木の太い方を上にして縦に並べる。並べたら直接木が燃えないように手前に石を積む。この作業の後、火入れ。炭焼きの一番難しいのがここから。
慌てると、“たっすい炭” になる。
——— 良かったら、炭焼きのこだわりを教えてください。
坂本 火がついたかどうかを、煙の色や匂いで判断することやね。けど(煙突)に木を置いて、空気の調整をし、炭をしぼる。
和田(晃) 煙がビヨーーっと長く、“粘りのある煙” になれば、火がついちゅう。火がついたかどうかの判断が、一番大事。これは長年の勘やね(笑)。
和田(耕) 煙の色が、白から黄色になって、最後に青くなっていく。そしたら焚き口と、けど(煙突)を塞ぎ、密封して火を止める。
坂本 慌てないでじっくり丁寧に、五感で感じながらやることやね。慌てると、“たっすい炭”(やわい炭)になってしまう。
(火入れの時にできる、熾き。この熾きで、つくる焼き芋は格別。)
——— 炭焼きを復活させたきっかけは、何だったのでしょうか?
坂本 そりゃあ、イノシシの肉を炭で焼くと美味しいから(笑)。
和田(晃) オーブンなんかより、炭焼きがいちばん美味しい食べ方やき。魚も美味しくなるし、全然違う。
和田(耕) 炭焼きをしながら、焚き口の横で芋を焼くのもいい。昔の話もしながら。
和田(晃) 今は、まこと自分たちの楽しみじゃ(笑)。炭焼きをした後の酒もまた一段と美味しい。
——— 地元にある資源を活用して、採って、焼いて、いただく。自然とともにある暮らし。本質的な豊かさを感じます。次々に新しい商品が生み出され、物に溢れた現代社会の中、「足るを知る」ことが、本当の意味で幸せに暮らす鍵なのかもしれないですね。
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< お話をうかがった人 >
坂本 一幸(さかもと かずゆき) 1937年土佐山中切地区生まれ。
和田 晃栄(わだ てるよし) 1940年土佐山中切地区生まれ。
和田 耕八郎(わだ こうはちろう) 1931年土佐山中切地区生まれ。
3人共通のいま好きなことは、炭を作って、自分たちで採ったイノシシや魚などを、炭で焼いて美味しく頂くこと。
TOSAYMA KONOHITO KONOTOKUSAN